生きる伝説のロジャーフェデラー。
そのフェデラーの奥さんのミルカさんについてはあまり知らない方も多いのではないでしょうか。
ミルカさんの正式名称は、ミロスラヴァ・”ミルカ”・ヴァヴリネックです。メディアでの愛称は”ミルカ”と呼ばれることが多いです。
ここでもミルカと呼んでいくことにします。
ミルカさんは元女子のプロテニス選手です。世界ランキングは最高76位までいき周囲から期待されましたが、ケガのため24歳で現役引退しました。
そんなミルカさんの生い立ちから紹介していきます。
国籍 スイス
出身地 チェコスロバキア・ボイニツェ
居住地 スイス・クロイツリンゲン
生年月日 1978年4月1日(40歳)
身長 174cm 体重 59kg
利き手 右 バックハンド 両手打ち
元やり投げ選手の父と母の間に一人娘として生まれる。ミルカが2歳のときにチェコからスイスに亡命し帰化。
9歳のときにドイツのテニス大会に連れてもらったときに、父が女王のマルチナ・ナブラチロワに頼み込んでドイツでレッスンしてもらうことに。
そこで初めてテニスをすることになるのだが、当時ミルカはバレリーナになるのが夢でテニスに対して思い入れはなかった。
しかし、ミルカのテニスを見て運動神経の良さや体格からナブラチロワはテニスをすることを強く薦める。
ナブラチロワの読み通り、ミルカはすぐにテニスの才能を現し15歳でスイスの女子18歳以下ジュニアで優勝!
この優勝でプロになる決意をする。
7月にフェドカップ対カナダ戦でスイス代表として初選出。ダブルスで出場。
ITFを中心に周り世界ランキングを340前後まで上げる。
プロ転向を意識していたが、引退を余儀なくされるかかとのケガをこの時に負う。
世界ランキングは490位に。
1月にプロ転向。
世界ランキングを250前後まで上げる。
この年の世界ランキングも去年とあまり変わらず270位前後。
3月 ¥25,000 日本の野田で準決勝で当時158位の吉田友佳を倒し、準優勝。
全仏オープンでは予選を勝ち上がり、初のグランドスラム本戦へ。1回戦で当時46位のマリアン・デスワードに0-6,4-6のストレートで敗退。
9月 東京のトヨタ・プリンセス・カップで予選を勝ち上がり、本戦2回戦で当時5位のモニカ・セレシュに1-6,0-6のストレートで敗退。
世界ランキングは105位まで上昇。
1月 ASBクラシックでツアー初のベスト8。
全豪オープンでは1回戦で当時159位のリサ・マクシアを6-1,6-4のストレートで下しグランドスラム初勝利。2回戦では当時9位のバルバラ・シェットに4-6,4-6で敗退。
4月のエストリル・オープンとGDFスエズ・グランプリでともにベスト8。
全仏オープンとウインブルドンでは1回戦敗退。
全米オープンでも1回戦敗退。
9月 シドニーオリンピックに出場。この五輪でフェデラーと出会う。オリンピックの結果は単複1回戦敗退。
10月 トヨタ・プリンセス・カップでは去年同様2回戦で当時5位のモニカ・セレシュに4-6,4-6のストレートで敗退。
翌週のジャパン・オープン・テニス選手権ではベスト8。
世界ランキングは100位をきり、88位でフィニッシュ。マルチナ・ヒンギス、パティ・シュナイダーに次ぐスイス3番手になる。
全米オープンではキャリアハイとなる3回戦進出。3回戦で当時6位のジュスティーヌ・エナンに3-6,2-6のストレートで敗退。
この年に古傷のかかとのケガの影響で試合に勝てない日々が続く。4月のGDFスエズ・グランプリの予選を最後にツアーを離れるのだが、敗戦後は松葉杖なしでは歩けないほど深刻なものだった。
選手生活が終わってしまったのではないかという不安から、うつ病を発症し8カ月間家に閉じこもる日々を過ごす。
これを案じてかフェデラーが自身のツアー帯同広報兼マネージャーをしないかとミルカに依頼してミルカが承諾して、テニス選手としては引退を決意。
フェデラーと最初の出会いは、お互いスイス代表として出場した2000年のシドニーオリンピック。そこでフェデラーがミルカに一目ぼれして交際を申し込む。
フェデラーはシドニー五輪シングルスベスト4。
この大会後に二人は交際を始めるのだが、交際をきっかけにかフェデラーの成績が急上昇し始める。
フェデラーはミルカに会った当初、「彼女を取るかテニスを取るか選べと言われたら、僕はシドニーを去る事を選ぶね」と言うほどミルカに惚れ込んでいた。
そして交際から9年の後の2009年にミルカが妊娠を発表し結婚。ミラ・ローズとシャーリーン・リヴァと名付けた双子の女の赤ちゃんを出産し、現在に至る。
フェデラーは年上女房のミルカさんに頭が上がらないみたいで、髪型や服装など色々ミルカさんの意見に従っているみたいです。やっぱり女は強いですね。