松岡修造と言えば、日本人はもとより世界基準の体格188cmから打ち下ろす200キロを超えるビックサーブを武器に世界と戦ってきました。
当時、サーブだけだと世界でも3本の指に入ると言われていました。
男子テニス界だとサーブは大きなウエイトを占めます。サーブさえキープしていればどんな強い相手でもタイブレークまではいけますからね。
今まで日本人が世界で活躍できなかったのは、体格からかサーブが強い選手が居なかったからです。
サーブが全てではないですが、大きな武器になります。サーブは唯一相手に邪魔されなく打てるため、サーブが強ければ体力を使うことなくポイントを取ることが出来ます。
今活躍している錦織圭は正直サーブが強くないんですが、サーブが良ければ間違いなく世界1位になれます。
今でこそ男子テニス選手、添田豪、伊藤竜馬、錦織圭、ダニエル太郎、杉田祐一が活躍していますが、”今”を作ったのは松岡修造の功績が大きいです。
スポーツは違いますが、野球のイチロー、サッカーの中田英寿、テニスでは松岡修造と世界の扉を開けた開拓者です。
あの錦織圭の才能に注目したのも松岡修造で、松岡がやっている修造キャンプに呼んだことから始まりました。
そんな松岡修造のテニス人生はケガとの闘いで順風満帆とは言えないものでした。そんな松岡氏の世界ランキングを振り返っていきましょう。
松岡修造は、兄がいるんですがジュニア時代は兄の方が注目されていました。
高校はテニスの名門の福岡柳川高校に2年次から編入で行きます。そこで2年時にインターハイに優勝して退学後、海を渡りアメリカに行きます。
松岡のテニスを見たボブ・ブレット(数々の世界的プレーヤーのコーチ)に見出されました。
当時アメリカと言えばテニス大国でトップ10の数人はアメリカ人という状況でした。
強くなるためには強い相手が居る場所でということですね。
プロ転向は1986年の19歳です。
この年は当時世界ランク1位のレンドル(1-6,1-6)、世界8位のコナーズ(0-6,1-6)と戦っています。
松岡修造のランキングは381位です。
翌年はケガの影響もあり310位で終了しました。
21歳になった松岡はこの年好調で日本の大会でジョン・マッケンローと戦い6-7,6-7と負けはしたものの善戦するまで力をつけてきました。
この年は好調を維持し大きく世界ランキングを上げて年間最終ランキングを100以内で終えます。
翌年はランキングを上げたことでトップ選手の主戦場であるツアー大会をメインに出場します。ニュージーランドで開催された1月の大会では決勝まで進み、負けましたものの準優勝に輝く。
しかしそれ以降は半月板の損傷で試合に出れず年間191位でフィニッシュ。
23歳のこの年は試合中の転倒で左足の靭帯3本全てを断裂するという選手生命も危ぶまれるケガをします。
壮絶なリハビリ後の翌年は好調で、ツアーより格が上のマスターズでグランドスラム通算14勝のピート・サンプラスを26,64,76で下しベスト8に入る。ここで大きく世界ランキングを上げ年間66位で終えます。
25歳になったこの年の松岡は4月の韓国での試合で決勝まで進出して勝利し、日本人初のツアー大会で優勝する。6月のツアーの大会でも決勝に進出して敗れはしたが、ポイントを大きく上げて自己最高の46位を記録します。
しかしその後は伝染病で入院生活を余儀なくされます。
26歳の68位でスタートしたこの年は、あまり活躍できず最終ランキングは126位で終えます。
翌年はツアーより下のカテゴリーのチェレンジャーを主戦場として前年度とランキングはあまり変わらず125位で終えます。
松岡修造のテニス人生のハイライトになるであろう28歳で迎えた1995年。ウインブルドンでは当初予選からの出場予定でしたが、本選選手に欠場者が出たため、繰上りで本選からのスタート。
いままでグランドスラムでは最高が2回戦であまり活躍できなかったのですが、1回戦から6-4, 6-7(5), 3-6, 6-3, 6-4、3回戦は7-6(3), 3-6, 6-7(6), 7-6(4), 6-3のフルセットと接戦を制しながら4回戦に進みます。
4回戦は6-3, 6-2, 6-4のストレートで倒し、コートを走り回ったり、大の字に寝転んだり喜びを爆発させます。ウインブルドンのベスト8は、1933年以来62年ぶりの快挙になりました。
続くサンプラス戦は7-6(5), 3-6, 4-6, 2-6で敗退しますが、サンプラスはこのウインブルドンを制します。
この年の最後のグランドスラムであるUSオープン1回戦で試合中に痙攣をおこしたのですが、当時のルールでは痙攣はケガ扱いされず倒れこんだまま時間制限によって失格になります。
テレビ放映でこの松岡の状態があまりにも痛々しかったため、ルール改定が行われ「シューゾーマツオカルール」と呼ばれました。
そして30歳で結婚をし、引退(卒業)します。
現在は持ち前のキャラクターで、テレビコメンテーターや解説、応援と幅広く活躍していて好感度も高いです。
テニスの活動では、錦織圭や数々のプロを輩出した修造キャンプを開催しています。
松岡修造が現れるまでは日本男子が世界ランキング100以内に入ることは想像できなかったし、今の男子テニスの活躍もなかったかもしれません。
そういった意味では松岡修造は世界の扉を開いた先駆者と言えます。