竹原 慎二(たけはら しんじ)は日本のプロボクサーで、日本人として初めてミドル級世界王座のチャンピオンに。
ミドル級はボクシングの全17階級中5番目に重い階級で、全階級中でもボクシングが盛んな欧米出身者が多く、日本人には絶対に不可能と言われていた階級。
体重で言うと154 – 160ポンド (69.853 – 72.575kg) 。
2017年10月22日に村田諒太がWBA世界ミドル級王座になるまで、竹原慎二しか成し遂げていない記録だった。
本名 竹原 慎二
階級 ミドル級
身長 186cm
リーチ 187cm
国籍 日本
誕生日 1972年1月25日
年齢 46歳
出身地 広島県安芸郡府中町
スタイル 右ボクサーファイター
総試合数 25
勝ち 24
KO勝ち 18
敗け 1
広島県の府中町で育った竹原氏は、中学時代は柔道部の団体戦で県大会優勝。その一方で、毎日喧嘩に明け暮れて地元では「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた。
中学卒業後は職を転々とし、見かねた元ボクサーの父親が「ボクシングをやれ」と言われ1988年9月9日に16歳で上京。
沖ボクシングジムに入門。
上京当時は、大田区の家賃2万3000円のフロなしアパートに住み昼間は内装会社で朝8時から夕方5時まで働いて、夜はボクシングの練習という生活を続ける。
17歳でプロボクサーとしてデビュー。デビュー戦の但野正雄戦で4回KO勝ちをし、デビュー戦勝利。続く2戦をKO勝ちし、東日本新人王決定戦に出場。ビニー・マーチンを6Rの判定で下し、第46代東日本ミドル級新人王に。
18歳の1990年2月18日に、徳田晴久を2RKOで勝利し第36代全日本ミドル級新人王に。11月には初の国際戦となる朴健洙(韓国)に1RKO勝ち。
19歳の1991年10月28日、王者の西條岳人に7RKO勝ちし第41代日本ミドル級王者に。(3度防衛し王座を返上)
21歳の1993年5月24日、李成天(韓国)に12RでKO勝ちし東洋太平洋ミドル級王座を獲得。この頃に勤めていた内装会社を辞め、ボクシング一本に。このお世話になった会社の社長とは今でも付き合いが。
東洋太平洋ミドル級王座は6度の防衛に成功。
23歳の1995年12月19日、24戦無敗のまま初の世界戦挑戦。
後楽園ホールでWBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)に挑む。相手のカストロは100戦を超える実力者であったが、3回で竹原が左ボディブローでダウン経験のない王者からダウンを奪う。その後、一進一退の激戦の中試合終了で判定へ。
判定の結果、3-0で竹原が勝利し、日本人初の世界ミドル級王者となる!
しかしこの試合の代償は大きく、ボクサーとしては絶望的な網膜剥離に。手術を受けるが左目は0.02まで落ち、ほとんど見えない状態に。
そして迎えた24歳の1996年6月24日、横浜アリーナでランキング1位ウィリアム・ジョッピー(米国)との初防衛戦。相手は22戦無敗の挑戦者。
試合開始直後に竹原がダウン。その後もジョッピーペースで試合が進み、9回に連打を浴びてレフェリーストップ。6か月で世界王座から陥落。
王座から陥落した竹原慎二は引退を決意。ボクシングの生涯戦績は25戦24勝(18KO)1敗だった。
25歳で結婚。現在は2人の子を持つ父親。
引退後芸能界入りし、タレント活動を始める。
2000年にはTBSの人気番組のTOKIOが出演している『ガチンコ!』の「ファイトクラブ」にコーチとして出演。不良と言われる若者をボクシングを通じて更生させ、プロボクサーに育て上げるという企画で人気もあり、3年間続いた。
2002年7月1日には、元世界王者の畑山隆則とともに、新宿にT&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開き経営。
2006年1月31日までイタリアンレストランも経営していました。
2013年に「頻尿」の状態になりかかりつけの医師に行き、「膀胱炎」と診断される。
1年ほどたち状態はさらに悪くなり血尿が出てしまうようになり別の病院へ。
そこでの診断結果は「膀胱がん」。
違う病院では「このまま何もしなければ最悪1年」と宣告されてしまう。ステージ4。リンパ節転移の5年生存率はわずか25%。死を覚悟したと言う。
その時に同じジムを経営していた畑山氏に進められて、東大病院へ。
そこで手術を受けて、順調な回復を遂げている。5年間の経過観察期間を無事終了すれば、「完治」となる。
現在は、これらの経験を活かして体験本を書いたり、タレント活動、ジム経営に精を出している。