日本テニス界の伝説 佐藤次郎

タイトル下



錦織圭が日本テニス界の記録を破るごとに出てくる名前が佐藤次郎選手。

佐藤次郎選手は1930年代に活躍したテニスプレーヤーで、日本人最高位の世界ランキング3位まで上り詰めました。

そんな佐藤次郎選手の経歴から活躍まで紹介したいと思います。



佐藤次郎(さとう じろう)プロフィール

出身地 群馬県渋川市

生年月日 1908年1月5日

没1934年4月5日(26歳)

長尾小ー渋川中ー早稲田大予科ー早稲田大学。

攻撃的なプレーと頭脳的な戦略で、食らいついたら離れない戦いぶりから世界から「ブルドック佐藤」と恐れられた。

経歴

小学3年生の頃から板のラケットで軟式テニスを始めます。

早稲田大学に入り18歳になってから初めて硬式テニスに移ります。入学当初、手首の強さを先輩に認められ準レギュラーに抜擢。

しかし、バックハンドは軟式打ち(フォアの面で打つ)片手打ちであったため、先輩にラケットの両面を使って打つように勧められるが、頑固な佐藤は聞く耳を持ちませんでした。

そんななかでもベースラインからの攻撃的なテニスで徐々に頭角を現してきます。

20歳で出場した全日本テニス選手権で準決勝で優勝候補の佐藤俵太郎をフォアの強打で圧倒して決勝へ。決勝でも牧野元相手に1セットを先取するが、そこから弱点のバックハンドを狙われ逆転負け。

これを機にバックハンドを改良することに。

昭和5年(1930年)

22歳には全日本テニス選手権初優勝!日本ランキング1位に。

昭和6年(1931年)

23歳にはデビス杯の代表に選ばれて、ヨーロッパを転戦。

全仏オープンではシングルスベスト4、ダブルス3回戦進出。

ウインブルドンでは単複ベスト8と活躍し、世界ランキングは9位に。

その後、イギリス各地をまわり12連続のトーナメント優勝記録を作る。

昭和7年(1932年)

24歳では全豪オープンでベスト4。

全仏オープンでは4回戦進出。

ウインブルドンではシングルスベスト4、ダブルス4回戦進出。

全米オープンでは単複2回戦敗退。

昭和8年(1933年)

25歳でむかえた全仏オープンではシングルスベスト4、ダブルスベスト8。

ウインブルドンではシングルスベスト4、ダブルスでは布井と組み準優勝の快挙。

全米オープンでは4回戦進出。

1933年ランキング 

No.1:J.クロフォード(豪)

No.2:F.ペリー(英)

No.3:佐藤次郎(日)

No.4:H.(バニー)オースチン(英)

No.5:E.バインズ(米)

No.6:H.コシェ(仏)

No.7:F.シールズ(米)

No.8:S.ウッド(米)

No.9:G.フォン・クラム(独)

No.10:L.ストーフェン(米)

世界ランキングは3位に。

昭和9年(1934年)

26歳の2月9日に婚約。

婚約してわずか2カ月後の4月5日午後9時-11時、渡欧の途中、遺書を残してインド洋のマラッカ海峡に身を投じた(享年26歳3ヵ月)。

最近見つかった遺著には、

慢性の胃腸病を患い、物事に集中できないと明かし「とてもテニスが出来ません」と訴えている。「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分かりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上のことは出来ません。生前お世話様になった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されんことを請う。では、さよなら」

と用紙3枚に走り書きでしたためられていた。

性格

子供のころから責任感が強く、まじめな性格で遅刻はもちろん友達との約束を間違えることもなかった。

自分に対しても相手に対しても厳しかった佐藤選手。

「約束というのは、複数の人の間で成立するものなので一人の身勝手な判断から遅刻したり、休んだりはできない」という考え方であった。

勉強の方も努力家で、成績は優秀だった。

こういった責任感の強さが自身を追い詰めてしまったのかもしれません。

戦前の日本を代表するテニスプレイヤー佐藤次郎選手。世界と堂々と渡り合った日本人選手でした。

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